精神科病棟に入院してみた

同じ病気を抱える方やママの心に刺さる内容を発信します

マタニティ入院編 2日目

朝を迎え、赤ちゃんの回収が終わって戻ってきたあと、

顔色を見たら真っ黄色で。

助産師から新生児黄疸の再検査をしますと言われ、赤ちゃんをまた連れていかれそうになった。

私は、新生児黄疸がなにかすらわからなかったので説明を求めた。

なにやら最初の黄疸の測定値より高い値を出していたため、再検査をするらしい。

やっと、頭で理解できたのでどうぞ連れて行ってくださいと言った。

数十分後、助産師はなにごともなかったかのように大丈夫でしたと言われた。

そして、体重は100g減っていた。

この件で、ミルクをしっかり飲ませなければというプレッシャーを少し感じていた。

もう精神的に限界だったため、午前中に私の母に電話で連絡をした。

もう育児が限界で全然眠れなかったと。

母親は出産後翌日に夜間同室をしていること自体に驚いていた。

無理をしすぎだと。

私はやってはいけないことをやってしまったと後悔した。

肉体的にきつさを感じていて、この先どうしようという不安に押しつぶされそうだった。

親から今日は夜間別室(完全に私が寝る)ことを提案された。

同室が原則だと思っていたため、無理だろうと思っていたが

夜勤担当の助産師に体力的に無理だと伝えると、そのときはすんなり休んでくださいといってもらえた。

 

そして、三日ぶりのシャワータイムが訪れ、時刻は21:45。

出産したときの助産師に7時がなんちゃらとか言っていたが、もう関係ない。

早くシャワーに入りたい気持ちでいっぱいだった。

新生児室にシャワーのため、預けにいくと消灯が22:00のため

今からシャワーに入らないでほしいと言われた。(照明が暗くなるため)

私はそこまで聞いていないと思ったが、もう諦めてじゃあ7:00に入りますと言った。

そしたら、助産師が私のカルテを見て3日シャワーを浴びていないことに気が付いたのか急いで入ってくださいと言われた。

私は慌てて、パジャマを所定の場所から取りに行き、バスルームの扉に手をかけるとそこにはテプラで7:00から22:00という数字が貼ってあった。

その数字に圧力を感じた。

出産担当であった助産師から消灯時間が7:00から22:00だからこの時間に入ってほしいという説明がなかったことにぞっとした。

バースプランで分かりやすい説明と書いていた私にとってなにごとにもかえがたい

恐怖を感じた。

そして、肝心のパンフレットにもそんなことは書いていなかったため何を信じればいいんだろうという気持ちになりました。

 

そしてシャワーでは不思議な体験をしました。

シャンプー コンディショナー ボディーソープを使っていても途中で何を洗い終わったのか忘れたり、

シャワー室で、赤ちゃんの声が聞こえたり、ドライヤーからも赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。

私は母親になったから全部赤ちゃんの声に聞こえるんだと思ってとくに気にしていませんでした。

 

ようやく眠りにつきましたが、あまり疲れはとれていませんでした。

 

次回 マタニティ入院編 3日目

 

マタニティ入院編 1日目

とりあえず死んだようにベッドに飛び込んで寝ました。

睡眠時間は6時間ほどでした。

病院の照明がだんだんと朝が近づくたびに明るくなるのでなかなかそれもあり寝付けませんでした。

(ちなみに、昼食・夕食抜きで出産したので夜食を夫に買ってきてもらいました。)

朝から産後ハイで、友人に出産報告のラインをベッドの上でしていました。

友人からのお母さん頑張ってねという一言に少し重圧を感じながらも、

お母さんとして成長しなければという気持ちで満ち溢れていました。

 

朝ごはんを食べて、出産後8時間から母子同室が始まってしまうので、

病院の総合受付で必要な入院手続きを済ませ、午前中には職場に電話で出産報告を行いました。

 

12:00

昼ごはんを食べて、なんで赤ちゃんこないんだろうと不安になりながらも

待っていると13:00頃に赤ちゃんを部屋に連れてきてもらい再会することができました。

「おめでとうございます。

 これから授乳の説明をしますね。」

 

授乳やお世話のルールは、記録表に基づき

・まず赤ちゃんが泣いたらおむつを確認する

・おしっこか便か確認して取り換える

・授乳は直母(直接母乳を与える)→ミルクを5ml→げっぷをさせる

これを繰り返し行う

粉ミルクは3時間ルールで3時間以上間隔を空けない(消化に2時間かかる)

(お世話記録は全部手書きでつけること)

※翌日6時に赤ちゃんは回収され、体重測定に回されます。

 

昼間はこれを一巡するとよく寝たので、なんていい子なんだろうと思いました。

 

時刻は6時をまわり、夜勤の助産師から

夜間同室やりますか、やりませんかと言われ

退院後ワンオペすることがほぼ確定していたので、早く赤ちゃんのいる生活に

私だけでもなれなければと必死で、同室しますと言ってしまいました。

のちにこの選択が私を病気になった原因の一つではないかと考えています。

母子同室で夜を過ごすと、赤ちゃんはぜんぜん眠らず

お世話のルーティーンを2巡・3巡して(粉ミルクルールを守り)やっと寝るかたちでした。

肉体と精神が少しすり減った感覚はありましたが、なんとかやりとげなければ

という気持ちで精いっぱいでした。

やっとのおもいで、翌日の6時がきて赤ちゃんが回収されていきました。

もうなにがなんだかわからず夜中は寝た感覚がなかったので、

朝食がくる8時くらいまで少し寝ました。

そのときに、初日からつまづいてしまったら母親としてこれからどうやって

生きていけばいいんだろうと不安がありまくりで、

少しずつ神経質になっていきました。

 

 

あとがき

あのとき、夜間母子同室をしなければ私は病気ではなかったかもしれません。

出産後に疲れているのに、助産師さんには2択ではなくあなたは出産を頑張ったんだからしっかり休んでくださいと言ってほしかったです。(私の甘えかもしれませんが)

これから出産を控えている方にいいたいのは、医療従事者の力を全部使って甘え切ってください。(高いお金を払っているので)

あなたは、入院中なにもしなくていい。

あとのことはなんとかなります。わからないことは入院中に全部聞くこと。

これを守っていれば子育てはなんとか大丈夫です。

 

 

次回

マタニティ入院編 2日目

LDR編 day2

そしてまた朝が来ました。

当直の先生に今日産みましょうと言われ緊張が募るばかり。

AM9:00

ついに陣痛促進剤が入りました。

もう陣痛促進剤が入ったあとの陣痛は以前の陣痛と比べ物にならないほど

痛かったです。

子宮が雑巾絞りされているかのような痛みがじんじんと10分間隔から8分間隔へ移行していきました。

しかし、なかなか子宮口が4㎝から広がらず、

分娩台はリクライニング可能なのですが、先生から

直角90度で座るか、立っていて(スパルタ指導)が入り、

直角90度で座ることにしました。

赤ちゃんの頭をなんとなく感じながら過ごしました。

 

AM11:00

担当医のお出ましです。

「今、子宮口がまた6cmです。産む気ありますか?もう帝王切開と同時で

 進めるしかありません。昼食・水抜きでお願いします。

 あと、体内に便があるのでとっとと出して下さい。」

 

ここから、少し頭が朦朧としていて、もう先生に従うしかないんだと思っていました。

(恐らくここから思考能力が低下しています)

言われた通り、お腹をぐるぐる回す体操をして、便を自然に排出して産道を広げました。

 

PM4:00

何とか子宮口が8㎝になりましたが、いまだに水なし。

体には点滴で水がいっぱい(口は乾く)入っていました。

もうレントゲンを撮ったり、同意書をバンバン書いていました。

だんだん早く産みたいから先生許してくださいという気持ちに切り替わっていきました。

最終的には子宮口全開まで直立で耐えました。

 

PM6:00

やっと担当医の内診で、子宮口全開を確認しました。(絶対げんこつ入れられた)

「よく頑張ったね。もう帝王切開は考えてないから水飲んでいいよ」

「ありがとうございます」

「ん。ちょっとまって赤ちゃんが元気すぎて1回転で良いところを、1回転半回ってる。

四つん這いになって、今度はいきまないで耐えて。」

「え」

四つん這いの姿勢なら、回転が戻る可能性があるらしいとのこと。

その際に、ほぼ私は一人でその姿勢でいきみたい気持ちを抑え、深い深呼吸を意識していました。

しかし、いつまでこの姿勢をやったらいいかわからず、ナースコールを押すのも

助産師さん忙しくてきてくれないかな。などど最初は考えていたのですが、

いやこのナースコール押さないと二人とも死ぬと決心がつきがんがん押しました。

このときに、私の心に別人格のような何かが芽生えました。

(ちょうと他のLDRでお産がもっと進んでいたらしく私は放置されました)

 

時間はかかりましたが、助産師さんがあとから来てくれて医師の内診を終えた後、

自然分娩は諦め、吸引分娩で産みましょうということになりました。

 

PM9:30

いきみを早々に終えた後、分娩に向かってLDRに沢山の医療従事者が終結しました。

(10名ほど)

私は場面展開が変わりすぎて、私手術室にいたっけ?ここどこ?

なんて思っているうちに、お腹をぐいぐい押され、赤ちゃんの頭にカップを装着され

2いきみで赤ちゃんが出てきました。

「おひゃーおひゃー」

感動と私の足は寒くて震えていました。

吸引分娩で会陰切開(局所麻酔あり)を縫合をされながら赤ちゃんをぼんやりみていました。

そして、体感的に女性ホルモンがゼロになった気がしました。

やっと二日かかったけど産めたんだ。

これからはマタニティの入院生活はごほうびだと思っていました。

(出産が壮絶だったので)

そのときの担当助産師が産んだ直後の病棟に移動する際に車いすを使いますか?と言われましたが私は会陰切開をしていたため、ふらふらになりながらも歩きました。

なんだか意識は朦朧としていましたが、しっかりしなきゃとう気持ちでいっぱいでした。

そのときにシャワーは24時間後だから翌日のPM9:30以降だけど、

AM7:00以降がおすすめと言っていて、なぜ7:00以降ではなければいけないのか

聞く元気がありませんでした。

(これがのちの後悔の始まりですが)

病棟の部屋についた際の説明は、病室に鍵はなく貴重品のみ鍵がかかる戸棚がありました。

どういう入院生活をするのか聞きましたが、パンプレットを見れば良いとのこと。

私は室内の案内とパジャマやタオルを取りに行く場所のみ説明されました。

 

パンレットをちらっとみたら母子同室は8時間後からとあり少々プレッシャーを感じながらも、眠りにつきました。

 

 

 

あとがき

もう後悔しかない。

助産師さんがあの一番きついときずっと傍にいてくれたら。

私の人格は変わらなかったんだ。病気にはならなかった。

そう思っています。

 

 

次回 マタニティ入院生活編

LDR編 day1

私はそのとき何が何でも今日中に産むという決意をしていました。

(結果翌日に出産していますが)

しかし助産師から悲しいお知らせが2つ

・破水スタートで、胎児の感染症のリスクが高いため

 産み終わるまで点滴が必要(4時間おきに交換)

・日勤の先生は9時からなので診察はそれまで待たなければいけない

 

24時間体制で出産可能ですみたいなところを売りにしていた病院だったため

内心がっくりきました。

仕方がないのでお腹にモニターをつけて胎児の様子を見ながら

私は分娩台(手術台のような、かったいクッションの上)で仮眠しました。

医師を待っているときでも、点滴を入れ替えるときは助産師の方から

名前を確認されるので、それに受け答えをしなければいけないのが地味に

苦痛でした。(あまり眠れなかった)

 

AM9:00

待ちに待った先生がやってきました。

女性医師でエコーを見ると

「完全破水してますね。午後4時まで様子を見てそのあとバルーンを入れましょう」

とのこと。

これから分娩に入るので、私は必死にへその緒の件を思い出し

先生に聞きましたが、

「これは巻きが少ないへその緒だから。週数がたっても変わらない」そう言われてしまいました。

妊娠中期で聞いていた話とは違うし、何より破水して不安だった気持ちに追い打ちをかけられたような気分になりました。

最悪の気分で分娩台に戻り、助産師さんを見ると

「先生はああいってたけど一緒に頑張りましょう」と慰めの言葉をかけてくれました。

おそらく私はあの女性医師の言葉を一生忘れることはないでしょう。

それくらい衝撃的でした。

※現在冷静に考えたらいざ出産してへその緒が出てきた状態でないと

どういうへその緒かわからない。そういうことなんだと気がつけました。

しかしながら、初産妊婦にそんな声かけってある?

士気を下げることを言って何になるんだろうと思いました。

 

気持ちはだだ下がりしましたが、私は分娩に臨もうと気持ちを切り替えました。

またお腹にモニターをつけて赤ちゃんの心拍が落ちていないかチェックして

いました。

お子は破水をものともせず、元気に泳ぎまわっていました。

時々モニターからビィーと警報のようなものが鳴って

慌てて助産師さんが駆けつけることがありましたが、お子が元気すぎて

モニターとは反対側に泳ぎ逃げていたり(笑)

とにかく自然にお産を誘発させるためにスクワットを行っていました。

(ちなみに空気椅子もやりました)

結局、陣痛は10分間隔、子宮口は2センチしか開きませんでした。

 

PM4:00

バルーン挿入開始

バルーンを入れることよりもその前の内診の指の感覚のほうが痛かった。

とにかく夜6時くらいにバルーンが破裂し、子宮口が4センチ開いた。

 

いつのまにか担当助産師が夜勤担当の方になっていた。

他のLDR室では出産があり,おめでとうと先を越された悔しいという気持ちが

混同していました。

陣痛中は、助産師の方にバースプランでお願いしていた分かりやすい説明が

頻繁にありました。

基本的な出産の流れ・初産の陣痛時間・出産に向けてのご飯の取り方など。

特にご飯では、残りのおかしの残量を見て夜ご飯にパンがついていたため

このパンはとっておいたほうがいいとアドバイスをくれました。

そして、時刻が9時を回った際に陣痛間隔が10分おきから弱くなってきてしまいました。

今日産みたいけどどうしようと助産師さんに相談すると、

今日は無理だと判断したのか、お布団でゆっくり寝ていいよと言ってくれました。

そんなことしたら産まれないと気持ちが焦っていましたが、案外ゆっくり休んだほうがお産が進んだりするのよと言ってくれました。

1日中ロクに寝ていなかったので、お布団は天国でした。

布団に入った後、助産師さんにしっかり寝たら陣痛がまた来るかもしれないので、

「もし陣痛が10分間隔になったら、ナースコールで呼んで。」

これでゆっくり朝まで寝れる!!

とかなんとか思っていたらお腹にちくちくと痛みが。

これは10分間隔の陣痛。

スマホの画面を見ると1月15日2:00

ぐっすり寝たい気持ちを諦め、ナースコールを押し、

また分娩台に戻り、お腹にモニターをつけて出産に臨みました。

 

 

次回 LDR編 day2

出産編 分娩

1月14日

AM2:00

その日はなんだか眠れずそわそわしていました。

いつもだったらとっくに寝ている時間です。

夫はたまたま、ビジネスホテルに一人で1泊していました。

(私は臨月近いからやめてねと言っていましたが)

私は翌日に子育て支援センターの下見をしていました。

片道10分ほどで行ける距離なのに、その日は30分かけてゆっくり歩いて行きました。

 

だらだらと家のベッドでスマホyoutubeを見ながら、2:00になったし

流石に寝ようと思った矢先に、

尿漏れのような感覚が。

時間が時間だし、スルーして寝ようと思いましたが臨月妊婦であったことを

思い出し、トイレに来ました。

両親学級で聞いた無色透明・無臭。

youtube知識で手に入れた、お腹に力を入れて水が出たら羊水と覚えていたため

いざ実践すると、やはり水が漏れてきました。

「こりゃ破水だ」

仕方なく病院に電話し、今すぐきてくださいとなったため、

用意していた陣痛バックと入院バックをもってGOタクシーを一人で呼んで

行きました。

真夜中に破水したことに動揺しながら、タクシーに乗り込みました。

タクシーの方は感じがよい方だったのですが、土地勘がなく

10分で着くぐらいの場所まで40分かかってしまいました。

(私も気をまわして行動すればよかったと反省)

最終的に何とか電話口で話した助産師さんと会うことができ、

もうそのころにはお股からじゃばじゃば水が出ていました。

外来用の分娩台に上がったら

「これ完全に羊水だね。分娩しよう」

もう今日産むしかないと覚悟が決まりました。

そして、なんとか出産する前に夫と会うことができました。

こちらの病院ではコロナ禍ということもあり、分娩後1時間しか面会できず、

そのままマタニティの入院に入ってしまうシステムでした。

夫から

「頑張ってね」という言葉をもらい一段と気合が入りました。

これから大仕事をするんだと不安からスイッチを切り替えることができました。

夫と少し会話していると、助産師さんから

「そろそろお時間が」との声かけが。

夫に別れを告げ、いざLDRルームへ向かいました。

 

次回 LDR

出産編 妊婦検診 中期から後期

私は、大学病院で妊娠中期の健診を受診しました。

 

精密超音波エコーのため、赤ちゃんの形やへその緒までゆっくり40分ほどかけて

行っていただきました。

こんなにもじっくりみてもらうことは、初めてで赤ちゃんに奇形とかあったらどうしようと心配していました。

医師からは赤ちゃんは問題ありません。

しかし、へその緒が通常3本の血管が雑巾絞りのようにしっかりねじれている

ことが理想ですが、いまのところあまりねじれていません。

このままねじれが弱いと出産するときに酸素不足になって、赤ちゃんに酸素がいかない可能性がありますので、帝王切開も視野に入れる可能性があります。

出産までに赤ちゃんの胎動などでねじれるといいですね。と言われました。

 

私は、初産だったこともありその言葉を気にしていたため、

クリニックで健診を受ける際もへその緒がきちんとねじれているか聞いていました。

 

ですが、クリニックのエコーではよくわからないと医師から言われ

もう出産のときが、ぶっつけ本番なんだと思っていました。

 

そして、クリニックで臨月前の健診を終えたときに

「これでうちの健診は終わりです。出産頑張ってください」

と言われたときに、胸が熱くなりこれからママになるんだという決意をすることができました。

 

そして、出産予定日が2月5日だったため、年始には大学病院の健診を受けましょうと言われ、35週の健診を1月4日に受診予約を入れました。

大学病院では、問題なく週数通り胎児が成長しているといっていただき、

次の健診は37週で良いということで、1月18日に健診予約をしていました。

 

実際には、1月14日から15日まで2日かけての出産となるのですが、

そのときはまさか自分が37週の健診を受ける前に出産するとは夢にも思っていませんでした。

 

次回 出産編 分娩です。

出産編 序章

私は出産して産褥期精神病になりました。

 

分娩は、大学病院。妊婦検診はクリニックというかたちの

セミオープンシステムを行っている病院での出産を選択しました。

理由は、クリニックの妊婦検診で外勤で来ていた医師の感じがよく丁寧な

男性医師(妊婦検診は女性医師ばかりで、男性医師自体に緊張していていましたが、それをまったく感じなかったです)だったからです。

そしてなにより、大学病院を選んだきっかけは、私の血液型がRh-という

珍しい血液型のため助産院では分娩できず、病院を選ばざる負えませんでした。

助産院での暖かい雰囲気やおいしい食事に憧れを抱いていましたが、

見事に打ち砕かれました。

また、私の母も同じRh-の血液型なので覚悟はしていましたが、内心残念でした。

 

そして、私は過去に病院で働いたことがあります。

医療事務ですが、医師・看護師と働いてなんとなく病院の裏事情には精通していました。

なぜか分娩予定の大学病院で出産したかたの口コミが悪いのが心配でしたが、

実際に診察してくださった医師は感じがよかったので安心していました。

 

また、そちらの大学病院の理念が心のこもる病院であり続けるという内容だったので

これなら安心できると思っていました。

 

 

私は無事に子供を出産していますが、もし時間を巻き戻せるなら

この大学病院でお産はしなかったと思います。

 

これから書いていく記事で、あのときなにがあったのか真相を明らかにしていきたいと

思います。